学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅰ章 心の夜あけ
黎明時代 1885(明治18)年以前

第Ⅰ章 心の夜あけ(黎明時代)
「天地創造」を象徴する大学工学部新礼拝堂のステンドグラス(1983(昭和58)年10月竣工)

東北学院100年の歴史を、そもそもの源へと遡るならば、遠く16世紀の宗教改革にまで至る。ルター、ツヴィングリ、カルヴァンらに始まるキリスト教世界の変革運動は、やがてヨーロッパ各地に拡がって、近代世界を形作ることになるが、ドイツでは神学者のウルジーヌスとオレヴィアーヌスの二人が「ハイデルベルク信仰問答」を執筆(1563(永禄6)年)、ドイツやオランダの改革派教会の信仰の基準と定められた。当時、打ち続く戦火の中にあったドイツから、多くのプロテスタントが自由の天地を求めて新大陸アメリカへと海を渡り、その地に自分たちの教会、すなわち合衆国改革派教会(通称ドイツ改革派教会)を設立した。18世紀から19世紀にかけて、主として東海岸のペンシルヴェニア州においてである。この教会の牧師養成を目的として神学校がランカスターに設けられ、他の教会立大学(フランクリン・アンド・マーシャル・カレジやアーサイナス・カレジなど)と並んで、同教会の教育・伝道に大きく貢献する。前者の大学からはこれまで実に17人の卒業生が宣教師として東北伝道のため来任している。東北学院とこれらの教育機関との結びつきは深く長いのである。

さて、19世紀はキリスト教の世界伝道の歴史でも「偉大な世紀」と呼ばれる。各教派が競ってアジアやアフリカの各地に宣教師を派遣し、活発な伝道を展開したからである。ドイツ改革派教会は、ようやく1878(明治11)年になって日本伝道開始を決定し、翌年最初の宣教師としてA・D・グリング夫妻、4年後にはJ・P・モール夫妻を送り、こうして東京を中心にした伝道が始まった。埼玉県の越ヶ谷教会、東京の番丁教会(のちに富士見町教会)、神田教会などはその実りである。1885(明治18)年12月、W・E・ホーイ(1858~1925)が三人目の宣教師として来日するが、その赴任先は未定のままであった。

このころすでに、日本にもプロテスタントのキリスト教が根をおろし始めていた。1859(安政6)年以来、横浜、熊本、札幌などに有力な伝道の拠点が形成され、多数の有為な人材が生み出されていた。その一人が、旧伊予松山藩士の押川方義 (1850~1928)である。押川は英学修得のため上京中の1872(明治5)年、キリスト教が未だ禁令のもとにあった時、アメリカ改革派教会(通称オランダ改革派教会)の宣教師J・H・バラの手から洗礼を受け、日本で最初のプロテスタント教会の一員となった。それは新しい時代の到来を待ち望んでいた押川にとって、まさしく「心の夜あけ」にほかならなかった。

1876(明治9)年、押川はスコットランド出身の医療宣教師T・A・パームを助けるべく新潟に移り、東北出身の吉田亀太郎らと協力して伝道に当たった。しかし、1880(明治13)年の大火を機に東北に転じ、仙台を中心として熱心な伝道を開始した。その成果は著しく、数年を経ずして仙台教会を主軸に、古川、石巻、岩沼などに教会が組織され、やがて中会が形成されるに至った。

かねて宣教師の来援を願っていた押川は、来日したばかりのホーイと出会い、協力の約束を取りつける。こうしてドイツ改革派教会は日本基督教会と協力し、仙台を本拠として東北を伝道圏とすることになる。