学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅱ章 東北を日本のスコットランドに
草創時代 1886(明治19)年~1900(明治33)年

ホーイの中国伝道

1900(明治33)年、ホーイは東北学院を辞し、中国の湖南省岳州(現在の岳陽)に新しい伝道地を求めた。強い排他性、閉鎖性、政治的不統一など、非常な困難にもかかわらず、数年内には男子、女子両校、さらに病院を設立し、改革派海外伝道の有力な拠点を築きあげた。男子校は洞庭湖畔にあったので、湖濱学校と呼ばれた。中国の政治的混乱の直中、ホーイ夫妻の労苦は絶大で、数回にわたり国外退去を余儀なくされた。1927(昭和2)年3月、帰米の途次、船上で死去、故郷のミフリンバーグに埋葬された。夫人のメアリも1937(昭和12)年、日本軍の空爆下にあった岳州で死去、二人の息子の眠る漢口に埋葬された。長女のガートルードは両親の遺志を継いで伝道に献身し、日中戦争を通じて中国に残留した。中国革命ののちは日本に戻り、宮城学院で教鞭を取った。