学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅲ章 LIFE LIGHT LOVE
興隆時代 1901(明治34)年~1930(昭和5)年

第Ⅲ章 LIFE LIGHT LOVE(興隆時代)
「3L精神」が刻まれた旧中学部校舎正面(1922(大正11)年6月竣工)

第2代院長に就任したシュネーダーは、まず学制の刷新に力を注いだ。1902(明治35)年、普通科は徴兵猶予と上級学校への進学資格を得、2年後には専門部が専門学校令による資格を得た。東北学院発展の基盤はこうして積み上げられて行く。1905(明治38)年、東二番丁に普通科校舎が完成し、翌年には寄宿舎も落成した。一方、東北学院の母胎とも言うべき仙台教会は、1901(明治34)年秋に壮麗な新会堂を建設し、神学部の赤レンガ校舎と文字通り表裏一体をなして東北伝道の中心的役割を果たすことになる。

学生の間の文化・体育活動も華々しい時代を迎えた。1911(明治44)年、前院長押川方義を迎えて創立25周年記念式典が盛大に行われた。最初の校歌が全校的に歌われたのも、この時である。間もなく普通科は中学部と改称され、専門部も神学科・文科の他に師範科と商科とを増設した。さらに南六軒丁に校地を取得するなど、著しい発展を遂げようとしていた矢先(1919)、仙台は空前の大火に襲われ、中学部の校舎と寄宿舎が全焼した。半生の努力の集積をことごとく失うほどの悲嘆の中、シュネーダー院長は、これを学院に課せられた最大の試練として受け留め、自ら先頭に立って再建に奔走した。その結果、学内外の広い募金活動に加え、外国伝道局からも多額の補助金を得て、3年後の1922(大正11)年には新校舎が完成し、翌年落成式を行った。正面にはLIFE LIGHT LOVEの3語が刻まれ、その後学院の建学の精神のシンボルとして親しまれることになる。

シュネーダー夫妻は、滞日50年の間に7回帰米し、日米間の国際親善、および学院の教育施設拡充のための資金募集に尽力した。1924(大正13)年の帰米の際も多額の資金を得て帰校したので、すでに取得していた南六軒丁の敷地に専門部校舎建築を開始し、1926(大正15)年創立40周年記念式とあわせて落成式を行った。またミセス・シュネーダーは、学院内にキリスト教的な社交施設をとの悲願を抱えていたが、この帰米中、年来の希望を実業家ハウスキーパーに訴え、その心を動かして建築資金を得た。1928(昭和3)年に完成したこの社交館は、学生・教職員のみならず教会・婦人会など広くキリスト教関係の集会・社交に使用された。

大正末で同窓生の数は1,000名を越え、海外にもその支部が結成されるに至った。卒業生の中には母校へ戻って教壇に立つ者、国内外で伝道の任に就く者、学界や官界・実業界に活躍する者なども少なくなかった。また、外国伝道局からはノッス、ゲルハード一家、ゾークなどすぐれた宣教師が次々と派遣され、学院をはじめ東北伝道史の各時代にわたって親しみ深い思い出と功績を残した。

シュネーダー院長は、学院のキリスト教教育の完成のため学校教会設立の必要を痛感していたが、帰米の際ラーハウザー女史から得た5万ドルの献金を基に、南六軒丁に礼拝堂を建設した。1932(昭和7)年、満州事変勃発の翌年である。