学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅴ章 エホバを畏るゝは知識の本なり
復興時代 1948(昭和23)年~1958(昭和33)年

第Ⅴ章 エホバを畏るゝは知識の本なり(復興時代)
シュネーダー記念東北学院図書館入口に掲げられたプレート(1953(昭和28)年10月竣工)

東北学院は戦災の焼け跡と敗戦の虚脱から復興へと立ち上がった。アメリカ占領軍の進駐はキリスト教にとって解放とも受け留められた。アメリカの母教会はいちはやく援助の手を差しのべ、復興資金を惜しみなく送ると共に、戦時中帰米していた宣教師たちに加えて、多数の若い有能な宣教師を派遣し、復興に協力させた。1953(昭和28)年に完成したシュネーダー記念図書館こそは、その目に見える表れであり、そこに掲げられた「エホバを畏るゝは知識の本なり」(津田郁筆)という聖句は、再建に向けての建学の精神のあらたな確認であった。

平和と民主主義を軸とする新しい教育理念にのっとって、学院もその制度を整え、新制中学校・高等学校を月浦利雄校長のもとに、文経学部の新制大学を小田忠夫学長のもとに設置し、発展の礎を据えることになる。新たに設置された学校法人東北学院理事長には鈴木義男が就任した。1946(昭和21)年11月、第4代院長となった出村剛は、小学校から大学までを含む大東北学院建設の夢を68万坪の八木山校地入手にかけたが、結局は実現をみなかった。出村剛は1949(昭和24)年9月、病没し、同年末には出村悌三郎も逝去、第5代院長に就任したA・アンケニーもまもなく永眠、戦争の傷痕の浅くないことを思わせた。以後、学院復興と発展の重責を担うのは小田忠夫である。1951(昭和26)年5月、第6代院長に就任してから、1982 (昭和57)年3月の逝去まで、30年の長きにわたって在任し、見るべき成果を収めた。

制度の整備、すぐれた教職員の獲得と並んで、校舎や校地、諸施設の補修、拡張、新築が着々とすすめられ、大学・中・高ともに研究・教育の必要を次第に満たすようになった。戦争中は困難を極めた宗教活動も、毎日の礼拝、教職員修養会、キリスト教青年会、公開クリスマスなど、目覚ましい展開を見せ、仙台市内外の教会に有為の人材を多くもたらすことになる。大学には各研究所が置かれ、文経学会の研究成果は『論集』として公にされて現在に至る。

1955(昭和30)年、復興10年を画して創立70年記念行事が盛んに開かれ、その一端として刊行された1,000ページにも上る『東北学院七十年史』(花輪庄三郎編著)は広く名著のほまれを得た。50周年に計画されながら実現を見なかった企ての、見事な実りであった。

 学生・生徒の課外活動も隆盛の一途をたどり、自治活動、文化面、体育面と目覚ましい活躍は、東北学院の名を全国にとどろかせた。ちなみに創立70年当時の在学生数は、大学・中高、さらに昼は働き夜学ぶ二部を含めて約5,000名、卒業生の総数は14,000名を越えている。同窓会活動も活発となり、30箇所の地方支部、13職場のTG会を数えるに至った。戦争中は刊行できなかった「学院時報」も復刊され、同窓生や父兄と学校当局を結ぶ心の絆の役割を担うことになる。こうして、復興の歩みは慎重かつ堅実に進められるのである。