学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅵ章 地のきわみまでも
発展時代 1959(昭和34)年~1986(昭和61)年

第Ⅵ章 地のきわみまでも(発展時代)
新時代の学術情報センターとしての役割をになうシュネーダー記念新大学図書館の外観(1984(昭和59)年11月竣工)

着実な復興は、やがて輝かしい発展時代を招来することになる。すなわち1962(昭和37)年、東北学院はキリスト教精神に立つ優れた技術者を世に送るため、多賀城市に工学部(機械工学科、電気工学科、応用物理学科、のちに土木工学科)を新設した。また1964(昭和39)年には、文経学部を文学部 (英文学科、基督教学科、史学科、二部英文学科)と経済学部(経済学科、商学科、二部経済学科)に分離し、翌1965(昭和40)年には法学部(法律学科)を新設した。こうして東北学院大学は、文・経・法・工学部を擁する東北唯一の私立総合大学となった。さらに前後して、各学部に大学院研究科を設置し、研究者養成体制を整備した。その間東北学院は、地域社会の期待と要望に応えて、高等学校榴ケ岡校舎を1959(昭和34)年に、また幼稚園を1962(昭和37) 年に新設した。

しかし、いかなる発展も必ずしも抜けるような青空の下、平坦な道を歩むものではない。東北学院も昭和40年代前半の世界的趨勢とも言える「大学紛争」の激しい嵐にさらされたのである。極めて政治性を帯びたこの紛争に対し、大学教職員は一致して収拾のための努力を重ねた。ここで経験した大きな「問いかけ」を内省的に受けとめ、大学革新のための数々の努力が今なお続けられている。

施設・設備の拡大と充実は、この時代の特記すべき事柄である。校舎、教室、研究室、礼拝堂、図書館、記念館、寄宿舎、特に泉総合運動場などの整備は、まさに目をみはらせるものがある。これらの恵まれた研究条件と教育環境から生まれた数々の人材と業績は、「地のきわみまでも」及んでいる。また10指に余る研究所はそれぞれ大きな成果を世に問い、地方・中央文化の向上のために顕著な指導性を発揮している。

1973(昭和48)年以来、国際化時代にふさわしい教育を目指して、海外研修・国際交流が大学・高校ともに行われている。たとえばアメリカのアーサイナス大学への夏期留学、さらにのちには日本研究講座開設によるアメリカ人留学生の受け入れなどがそれである。また国内における青山学院大学と北海学園大学との共に30回を越える総合定期戦は、スポーツの交歓のみならず、両校との友情の発展に大きく寄与して来た。

このような発展時代の指導理念を担い、第10代理事長・第6代院長・初代学長として重責を果たした小田忠夫は、1982(昭和57)年3月逝去した。戦後長く中学校・高等学校長として、また第9代理事長として活躍した月浦利雄(1973(昭和48)年没)とともに、その功績は特記されるべきである。後事はすべて生前の小田を支えて来た2人の後継者に託された。かくて第11代理事長には児玉省三が、第7代院長・第2代学長には情野鉄雄が就任した。

東北学院は、創立100周年を契機として建学の精神を継承し、キリスト教的人材の育成を堅く決意している。そのためにも大学は、教養部の泉移転と教養学部の新設を計画し、東北学院第2世紀への歴史を力強く踏み出そうとしている。