学校法人東北学院

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【敬神愛人】悲劇からの100年(史資料センターWEBコラム)

2019年02月22日

 2019年3月2日は、かつて東二番丁にあった中学部校舎が1919年3月2日未明に発生した南町大火によって焼失してからちょうど100年にあたります。

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 この校舎は1905年9月に完成し、大火は完成から14年目にしての出来事でした。校舎建設にあたっては、ドイツ改革派外国伝道局が全額負担するはずでしたが、資材の高騰によって不足分が出たため、院長シュネーダーがアメリカで4か月の募金活動を行い、建設費をまかなうことができました。
 ドイツ人デ・ラランデの設計、正面中央と左右の大破風壁などドイツ・ルネサンス様式をとっており、外壁に使用された赤レンガと中央バルコニーの欄干や窓周りに配置された白い花崗岩とのコントラストが美しい建物でした。また、急こう配なスレート瓦の屋根と中央にそびえる時計塔は、建物の荘厳さを際立たせていました。
 しかし、冒頭のとおり、仙台市中心部を襲った大火災によって校舎は土台と少しのレンガ壁を残すのみとなりました。その日の未明は、風速35m以上の強い北西風の夜であり、火災は火元から南東へとみるみる延焼し校舎も巻き込みます。事態に気づいた教職員や生徒が駆けつけて建物内から荷物を運び出そうとしますが、火の手が回るのが早く、もはやなす術がありませんでした。私邸から駆けつけたシュネーダーは燃え盛る校舎に入っていこうとしますが、校舎と心中しまいかと院長を心配していた生徒たちが何とか引きとめました。そのうちの一人の生徒のご子孫によると、生前にご本人が、「当時は『院長を失っては東北学院にとって大損失になる』との思いから引きとめた」とおっしゃっていたそうです。
 その後、生徒数人に担がれて私邸に戻ったシュネーダーは、落胆のあまりしばらく立ち直れませんでしたが、中学部校舎の再建へと奮起し、焼失からおよそ3年後の1922年6月、「赤レンガ校舎」として親しまれた2代目の中学部校舎が完成しました。

190222-1_3.jpg おりしも、南六軒丁(現土樋)では専門部校地の整備も控えており、もし、この驚くべきスピードで中学部復興ができていなかったら、専門部の発展はずっと遅れていたでしょう。