学校法人東北学院

新着情報

【敬神愛人】1930年代の学都・仙台(史資料センターWEBコラム)

2019年10月25日

1930年代の学都・仙台―学生新聞の記事から―

 1930年代、東一番丁は仙台の繁華街として大変な賑わいを見せていました。学生たちにとっても、当時の東一番丁は貴重な遊び場であり、その様子を当時の学生新聞である『東北学院学生時報』(以下、『学生時報』)からも、うかがい知ることができます。
 当時、江戸時代から仙台で営業を続けてきた藤崎の百貨店と、東京から進出してきた三越百貨店は、それぞれの色を打ち出して商戦を繰り広げていました。そして、その戦いは『学生時報』の広告欄でも展開されました。例えば、1933(昭和8)年5月30日付の『学生時報』第5号の一面には、藤崎と三越の広告が大きく掲載されています。三越が仙台に進出したのはこの年の4月。学生を取り込むためか、藤崎の広告と異なり、三越は文房具や運動具など、学生向けの商品をアピールしています。この両百貨店は、この後もたびたび『学生時報』の広告欄に登場し、紙上での商戦を繰り広げました。

191025-1_1.jpg

藤崎百貨店と三越百貨店の広告

 『学生時報』の広告欄で目立つのは、喫茶店の広告の多さです。当時の喫茶店は、コーヒーを提供する純喫茶だけでなく、酒類を提供するお店やフルーツパーラー、さらには女給との交流を目的とする「カフェー」と言われるお店もありました。学生の中には喫茶店通いに夢中になる者もいたようで、『学生時報』には「休講 ― それ行け一番丁」と、学生を皮肉る言葉が書かれるほどでした。

191025-1_2.jpg 191025-1_3.jpg
(左)喫茶店や食堂の広告 (右)東一番丁のネオン


 しかし、こうした街の様子も1940(昭和15)年ごろには変化が見られます。1940年3月2日付『学生時報』第39号の「銃後より戦線へ」という記事には、街の様子が次のように書かれています。

…諸兄の親しんだアフリカ(喫茶店の名前、筆者注)にも祝皇紀二千六百年の電気行灯が掲かつて居り私達は其を眺めながら真の意味でのコーヒーを味はつて居ります。(中略)このころの番丁は落着いてゐる。独特のとんかつ異国味のコーヒーの店はゆつたりとレコード音楽を響かせてゐる。無意味な放歌高吟の減じて来たことは頼もしい。…


 緊迫した戦況は、仙台の街にも影響を与えていたことが分かります。やがて、1945(昭和20)年7月10日、仙台は空襲を受け、東一番丁など多くの商店街が全焼しました。戦後の復興期を経て、学生たちの遊び場もまた姿を変えていくこととなりました。