学校法人東北学院

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【敬神愛人】敗戦後のクリスマス礼拝(史資料センターWEBコラム)

2019年12月23日

 今からおよそ70年前。第二次世界大戦敗戦後の日本社会は、めまぐるしい変革の中にありました。それは東北学院も同様で、航空工業専門学校から文系の専門学校への転換、共学化、六三制の実施、八木家からの土地寄付の申し込み、そして院長の交代といった様々な出来事が、数年の間に起こりました。
 戦後の慌ただしい時代においても、東北学院では年末にクリスマス礼拝・祝会が行われていました。当時、中高や専門学校で発行されていた新聞を見ると、クリスマス礼拝や祝会のプログラムには、キャンドルサービスやYMCAによる讃美歌の合唱、学生による英語劇などが組み込まれており、とても賑やかなものだったようです。しかし、クリスマスに関する記事の中には、「今の時代では昔のように夜のクリスマスは帰りが怖いし、朝のクリスマスでは一人で歩けない」、「デコレーションは経費を節約して創造の喜びを味わおうと、出来るだけ生徒の手でやることとなつた」など、戦後の治安状況の悪化や、経済難をうかがわせるような内容が見られます。
 一方で、経済的に苦しい状況にあっても、クリスマスツリーには本物の木が使用されていました。史資料センターが所蔵する資料の一つに、1948~49(昭和23~24)年頃に撮影されたと考えられる写真があります(写真1)。ラーハウザー記念東北学院礼拝堂の一角に立てられたクリスマスツリーは、2階席まで届くほどの大きな木ですが、どこから調達したものだったのでしょうか。

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写真1 戦後のクリスマス
(1948~49年ごろ?)
写真2 「大東北学院計画」の記事
(1947年12月18日付「東北学院新聞」より)


  本学名誉教授である出村彰氏が、父親である出村剛(第四代院長)から聞いた話によれば、戦後のクリスマスツリーは、八木家から寄付されるはずだった八木山の土地から調達していたそうです。1946(昭和21)年、仙台の実業家であった八木家は、八木山に持っていた約68万坪の土地を東北学院へ寄付することを申し出ました。この八木家からの申し出を受けて、1947(昭和22)年、東北学院では同地を校地の一部として使用することを決定し、小学校から大学までを抱える「大東北学院」の設立を計画しました(写真2)。最終的に土地を寄付される話は立ち消えになりましたが、こうした状況の中で、学生たちは自ら山の中に入り、クリスマスツリーとなる木を伐採し運び出していたようです。
 戦後まもなくのクリスマス。それは、当時の世相に大きな影響を受け、またそれ故に制限も多いものでした。しかし、様々な苦労の中で催されたクリスマスは、東北学院の教職員や学生たちにとって、記憶に残る印象深いものだったのではないでしょうか。
 今年も、クリスマスが近づいてきました。皆様にとって、来年も良い一年であるようお祈り申し上げます。

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2019年のクリスマスイルミネーション