学校法人東北学院

新着情報

【敬神愛人】泉校地の開発計画と幻の博物館構想

2021年10月19日

 1965(昭和40)年、東北学院は宮城郡泉町(現仙台市泉区)に10万坪を超える用地を取得しました。この広大な土地の利用について、当初は学生のレクリエーション施設やキリスト教関係の修養道場、当時東九番丁と多賀城、工学部寄宿舎と点在していた寄宿舎の統合や高校の設置などが計画されていました。しかし、実際には各キャンパスが拡張発展の時期だったことに加え、理事会が学生運動への対応に追われていたことから、泉校地の開発まで手が回らず、用地取得の翌年に男子学生用の寄宿舎が建設されたのみでした。

211015-4_1.jpg
泉校地(1970(昭和45)年撮影)

 

 用地取得から5年後の1970(昭和45)年、創立八十五周年記念事業を契機に泉校地の総合開発が模索され、榴ケ岡高校の新築移転、大学のセミナーハウスと運動場の建設などが計画されます。そして、実際に榴ケ岡高校の新築移転計画が実現し、1972(昭和47)年の新校舎完成に伴い東北学院高校榴ケ岡校舎は移転し、榴ケ岡高校として独立しました。
 この創立八十五周年記念事業を契機にした泉校地の開発について、教員たちも関心を寄せていたようで、史資料センターには博物館学を担当する教員たちが泉校地に大学附属博物館建設を目指したと考えられる資料が保管されています。資料には博物館学を担当する二名の教員による「東北学院大学附属博物館建設願書」、博物館の概要が書かれた「東北学院大学附属博物館構想」と共に博物館の図面が付属しています。
 「東北学院大学附属博物館構想」によると、建物は「和風と英国風の民家様式をデザインしたもの」で、将来的には「東北各地域の民家を付属せしめる」と書かれています。資料の収蔵・展示計画については民俗学と考古学の二部門を設け、民俗学部門では東北諸地域の信仰、祭祀、生活に関係する資料の収集と研究や民家の移築、地域別の陳列方式を採用した展示のほか、隣接する大講堂内常設舞台における民俗芸能の演技採録を計画していました。考古学部門では、東北諸地域の各時期における生産関係資料の収集と研究、室内陳列と屋外陳列の方法を採用し、北方への伝播を重視した展示を計画していたようです。また、図面には展示室や屋外展示場のほかに、舞台を備えた大講義堂や図書室の設置も計画されており、かなり大規模な博物館を構想していたことがうかがえます。

211015-4_2.jpg

    博物館の外観

211015-4_3.jpg

         博物館の図面(1階)

211015-4_4.jpg

         博物館の図面(2階)

 この壮大な博物館構想は事業として委員会に採用されなかったのか、そもそも委員会へ提出されたなかったのか、真相は不明ですが実現することはありませんでした。そんな大学博物館は、2009(平成21)年に東北学院大学博物館として、大学における研究成果の発表や学芸員を目指す学生の教育実習の場として土樋キャンパスに隣接して建設されることになります。 一方、寄宿舎と榴ケ岡高校を除いた未開発の土地(約8万坪)については、1978(昭和53)年に拡充整備計画が開始され、3年後には総合運動場として整備されます。そして、1985(昭和60)年には創立百周年記念事業として泉キャンパスの整備計画が発表され、1988年の完成に伴い、大学の一部移転と教養学部新設がなされたのでした。