学校法人東北学院

東北学院の100年

第Ⅳ章 我は福音を恥とせず
苦難時代 1931(昭和6)年~1947(昭和22)年

第Ⅳ章 我は福音を恥とせず(苦難時代)
創立50周年記念礼拝におけるシュネーダー院長最後の説教のレコード(1936(昭和11)年5月10日、東京ビクター会社製作)

1930年代に入ると全世界に経済不況の嵐が吹き荒れ、アメリカの母教会も極端な財政不足に陥った。昭和初頭には年額5万ドルを越えていた経常費援助も、4割減を余儀なくされ、東北学院は未曾有の苦難に直面するに至った。学院は独立自給を強いられ、経費削減を計ると共に、シュネーダー自ら先頭に立って100 万円の基本金の募金に着手し、親交のあった財・政界の有力者にも協力を求めたが、その達成は容易ではなかった。

苦難は財政面に留まらなかった。資源に乏しい日本は、国運の伸張を海外植民地と市場の獲得に求め、欧米先進国との経済的・軍事的緊張は高まる一方であった。大正デモクラシーは影をひそめ、非常時体制の強化が叫ばれ、軍国主義への傾斜が急速に強まり、軍事クーデターが続発する。学生・生徒には軍事教練が課され、軍人の教官が配属されるに至るが、キリスト教学校もこれを受け入れざるをえなかった。こうして、満州事変が勃発し(1931)、日支事変へと拡大 (1937)、ついに第二次世界大戦へとなだれこんで行くのである。国内の思想統一を画策する軍閥政府の統制強化は、学院にも動揺を引き起こさずにはおかなかった。

1936(昭和11)年に迎えた創立50周年記念を機に、80歳の老院長シュネーダーの「我は福音を恥とせず」と題する説教は、NHKを通じて全国に放送され、深い感銘を残した。それはどのような時代にあっても、建学の精神たるキリストの福音を守り通そうとする祈りの表われでもあった。

辞任したシュネーダーの後は出村悌三郎が第3代院長として継ぎ、難局に当たることになる。シュネーダー夫妻はアメリカへ渡り、米大統領と面談するなど、緊迫の度を加えつつあった日・米関係の改善・打開に尽力するが、大勢はいかんともなしがたかった。シュネーダー夫妻が二つの祖国と呼んだ日・米の開戦を目にせずに世を去ったのが、せめてもの幸いであった。

創立以来50年にわたって多くの有力な伝道者を送りだしてきた神学部が、東京の日本神学校と合同する形でその歴史を閉じたのも(1937)、この時代を象徴する出来事であった。

ついに太平洋戦争が勃発し、戦火が激しくなると、文科系学校としての学院の歩みも苦渋の度を加えた。学生・生徒、教員は、あるいは兵卒として応召され、あるいは軍需工場や勤労奉仕に徴用・動員され、校舎や礼拝堂までも軍に接収されるに及び、学院はその存立そのものまでもおびやかされる。苦肉の策として設立された航空工業専門学校が、かろうじて学院の存立を保ったのである。

物心両面にわたる苦難は、1945(昭和20)年7月10日の仙台空襲によって頂点に達した。南六軒丁の専門部、東二番丁の中学部の建物は焼失あるいは破損し、すべてが失われたかのごとくであった。敗戦によって外部からの圧迫は除かれたものの、戦後の窮乏と混乱は復興への途の遠く長いことを思わせるばかりであった。