第Ⅱ章 東北を日本のスコットランドに
草創時代 1886(明治19)年~1900(明治33)年
押川とホーイの二人は、日本の伝道は日本人自身の手によるほかないとの確信を抱いていた。そのためには、牧師養成を目指す神学校の設立が急務とされる。1886(明治19)年早々、仙台に赴任してきたホーイのもとに、数名の青年たちが新しい知識を求めて集まって来る。同年5月、押川とホーイは6人の伝道者志望の学生を得、木町通りと北六番丁角の借家で私塾の形の学校を興こし、これを仙台神学校と名づけた。東北学院のささやかな出生であった。その中にはのちの神田教会牧師で力行会の創始者となる島貫兵太夫も含まれていた。経費のほとんどはホーイの支弁によったといわれる。同じ年には、プルボーとオールトの二人の婦人宣教師が着任し、押川やホーイらの協力によって宮城女学校が設立された。仙台で最初の女子教育機関である。翌1887(明治20)年末には、D・B・シュネーダー夫妻が来日し、50年にわたる伝道と教育への献身の生涯に第一歩を印すことになる。
1891(明治24)年、仙台神学校は東北学院と改称され、伝道献身者以外にも普通・高等教育を施すようになり、次々と学制を整えると共に、購入した南町通りの校地には赤煉瓦造りの校舎を新築、その壮麗さは市民の目を奪った。その内部にはドイツ改革派教会の外国伝道局財務R・ケルカーの名に因む有力な図書室も設けられた。新進の詩人島崎藤村が作文教師として着任するのもこのころである。
院長押川の名声は全国に聞こえ、文字通り笈を負うて集まる青年らのために、働きつつ学ぶ労働会が設立される(1892)。その中には、ランカスター留学中に客死した金子謹三を記念する印刷所も設けられ、多くの伝道冊子を出版して東北伝道に貢献した。労働会は、全学院のインスピレーションとまで謳われ、数十年にわたり多数の人材を輩出した。こうして、東北学院の確かな礎がこの時期に据えられることになる。
このころ、文運もとみに栄え、1893(明治26)年には『東北文学』、3年後には労働会寄宿舎の機関紙『芙蓉峰』が発刊された。他方、ホーイの手による特異な英文雑誌『ジャパン・エヴァンジェリスト』も30年の歩みを開始した(1893)。
ところで押川の雄志は仙台の地に限られることなく、その視野はあるいは北海道(同志会)へ、あるいは朝鮮半島(京城学堂)へと拡がり、ついに東北学院長を辞して上京、政治や実業へと幅広い活動を展開するようになる。他方、ホーイの目も清朝末期の混乱の中にあった中国へと向かう。健康上の理由もあって、 1900(明治33)年東北学院を辞したホーイは、家族と共に中国湖南省の岳州に転じ、そこに伝道・教育・医療の有力な拠点を築き上げ、1927(昭和2)年の死にまで及ぶ。ホーイ夫人とその娘も第二次大戦後まで中国伝道に献身した。米・日・中そして天の四つの国の市民にふさわしい生涯であった。
こうして東北学院の将来はシュネーダーの双肩にゆだねられることになる。